寝太郎伝説研究会々長...(寝太郎大使) 田尾 進
〒757-0004/...山口県山陽小野田市大字山川1349-3
| 寝太郎落ち武者伝説 | B6判58頁 | 推薦者/縄田明人(高校講師、女子短大非常勤講師、元中学校長) |
| 寝太郎伝説ゆかりの地 | B6判38頁 | 推薦者/山本善一(山陽町文化協会会長、元町議会議員) |
| 寝太郎と大内氏系譜 | B6判32頁 | 推薦者/重村房雄(山陽町文化財愛護会顧問、俳人号/蒼生) |
| 寝太郎伝書のナゾ | B6判36頁 | 推薦者/幡生正隆(惣社八幡宮宮司、寝太郎神社祭主) |
| 絵でみる寝太郎伝記 | B5判10頁 | 文/田尾進・絵/竹野宏 |
| 寝太郎巨大史脈 | A4判6頁 | 田尾進 |
| 寝太郎紙芝居 | B6判30頁 | 文/田尾進、絵/竹野宏 |
| 寝太郎古文書の究明 | A4判8頁 | 田尾進 |
| 寝太郎と矢野主水 | B6判6頁 | 田尾進 |
| 寝太郎と清覚僧 | B6判8頁 | 田尾進 |
| 寝太郎弟の系譜 | B6判8頁 | 田尾進 |
| 厚狭の寝太郎 | 新聞連載 | 漫画/広中健次・監修/田尾進 |
寝太郎落ち武者伝説
紙芝居「寝太郎落ち武者伝説」の上演祈願祭は平成4年4月3日、円応寺の寝太郎権現堂で行いました。
紙芝居上演履歴
Eマンガ「厚狭の寝太郎」監修/田尾進、漫画/広中健次
(平成13年6月より〜平成15年5月まで、2年間にわたり中国新聞に連載されました)
E
系譜等の紹介 (1部推測)
著作登録(第111056号)
寝太郎伝説主人公
〇清和源氏第23代末裔・平賀清恒系図
(ナオ義信ガ跡目ヲ継イダ翌年、盛義ノ実子有義ガ誕生スルガ時遅シ、ヤムナク越後国二移リ金津保ノ地頭トナル。資義ハ其ノ子)
法名ハ玄信院雄山道英大居士、妻ハ岩村田城主大井忠孝ノ娘禧子(湖月)デアリ
海ノ口出城デハ、薙刀ノ名手トシテ最後マデ死力ヲ尽クシテ戦フ。
海ノ口出城ノ崩壊二ヨリ、裏山カラ敗走、後二冷泉家ニ
嫁イダ姉ヲ頼リ周防国へ逃レシ、大内義隆ニ仕ヘル、妻ハ義隆ノ異母妹也、
オ家騒動二ヨリ長門国へ伏セ、奇抜ナ発想デ千町ヶ原ヲ開拓スル、通称/寝太郎ト云フ、
慶長15年ニ没ス、ノチ寝太郎ト称サレ神社二マツラレル
父
平賀成頼入道源心、姉は岩尾城主大井行真に嫁ぐ、
母
禧子(湖月)は岩村田城主大井忠孝の娘、兄は大井貞隆
姉
姚子(冷泉隆豊に嫁ぐ)
嫡子は元豊
本人
清恒 (四郎兵衛=寝太郎)
嫡子は清隆(弥一)
弟
季恒 (国長)
嫡子は季光(のち白石国光)
妹
市川信次(伴野城指添老中)に嫁ぐ、
嫡子の信秀は市川家17代
紙芝居(有料上演)プロフィール
大型紙芝居 ベニヤ板600ミリ×900ミリ:セット総重量37s(台座付き)・著作登録(紙芝居)第111480号
脚本/田尾 進 、 絵画/竹野 宏.
ナレーション(20分コース) 小野又悦子
ナレーション(40分コース) 川崎美奈子
現在まで諸団体の依頼を受けて各地の公会堂、山陽福祉会館、
山陽老人福祉センター、山陽商工会館、厚狭小学校、
津布田小学校(総合学習講師)、円応寺駐車広場、梶沖開作連合自治会館、厚狭商店街ちびっこ広場、厚狭郵便局コミュニテイルーム、
山陽町文化会館、及び各子供会や婦人会、
老人会など15年間にわたり、大勢の方にご覧頂き終了しました。現在、一般からの上演依頼は受付けておりません。
平成20年4月27日は、郷土史研究/いろはカルタの旅ご一行(32名)に特別上演しました。(寝太郎公会堂)、
また8月12日-須恵公民館での教養講座で紙芝居上演(62名)。23日は中央図書館まつりで紙芝居上演(51名)。
活動など
@紙芝居 A大型絵馬奉納
一部紹介・・・・
〇中川長八・・・山師で、早くからは金鉱山を発見し、内密で採掘していた。後年、山師の仲間割れにより、幕府の知るところとなる。
その間、十数年間もの間、金鉱石などを隠し持ち、のち豪商、但馬屋の主となったといわれる。
〇矢野主水貞政・・・・(清恒母の実父大井忠孝の弟大井忠治の孫になる)信濃国蔦尾城主・村上義清の家臣/矢野左近主水司の養子となる。
貞政も主水頭の職となるが、天文22年(1552)主君村上義清が甲斐国の武田信玄に敗れるに伴い、佐渡島へ敗走、これ又、奇遇にも砂金採りの作業に携わる。
弘治元年(1555)ワラジを運んだ清恒と再会し共に長門国へ下る。彼は治水工事を得意とし千町ヶ原開拓工事に大きく貢献する。
のち数年後、金鉱石の一部を受取り?吉田庄(現、下関市)へ移る。
元亀2年(1571)吉田庄楢崎に信濃国の諏訪神社を勧請して初代宮司となる。併せて
諏訪大社の特徴、上社と下社を合わせて一社を形作るように吉田庄を上諏訪、下ノ諏訪と名付けたという。この地名は今尚現存している。
地元の言い伝えでは天正5年(1577)8月、主水が亡くなると墓は宗蓮寺山に作られたが、その中に佐渡島の金鉱石など財宝が埋められたという。
またその墓の一角だけは宝積山とも呼ばれている。
主水の子貞俊および孫貞吉も、諏訪神社の宮司として仕えている。
毎年8月には主水祭(矢野主水)も行われていたが、寛永14年(1637)曾孫貞義が未婚のまま急死したことで、その直系は絶えてしまった。
また明治39年(1906)神社整理のため、335年の歴史をもつ諏訪神社も吉田八幡宮に合祇された。
なお矢野主水の直系は絶えたものの分家の子孫は多く、矢野陸軍兵長(29歳)が太平洋戦争のとき「第三次ソロモン海戦」によりガダルカナル島で戦死。
(昭和17年11月没)。
他にも矢野一族と思われる者は、昭和20年6月にフィリピン(セブ島ダナオ)で戦死した矢野伍長(31歳)、同じく6月に呉海軍病院で
療養中に死亡した矢野海軍整備上等兵(21歳)、さらに8月には広島西部第2部隊にいた矢野陸軍軍曹(25歳)も戦死している。
だが、今なお地元に10数軒の矢野姓があり、いずれも矢野主水の末裔であると思われるが、これ以上の調査は控えておく。
(なお吉田宰判所管の吉田庄は、明治11年に吉田村と吉田地方村とに分かれ厚狭郡に属す、のち明治22年、吉田村に統合。
さらに昭和30年、下関市に編入され現在に至る。
〇枝村孫衛門と子孫・・・・酒造業で大庄屋、厚狭市の大富豪として有名である。孫衛門というから3代目であろうか、七瀬川(現/厚狭川)の東岸に豪邸、
枝村家本宅とその離れに枕流亭という旅籠を営み、広大な庭は絶景12勝と謳われていた。
孫衛門は治水工事に積極的で、[千町ヶ原]開拓工事を支援した人物の一人とされている。
枕流亭についても輝かしい数々の歴史がある。まずは孫衛門の祖父、つまり枝村家初代の頃までさかのぼれば、文明12年(1480)、
山口の大内政弘(35歳)に招かれた京都の連歌師飯尾宗祇(60歳)が九州の大宰府まで足を運んだとき、厚狭市の枕流亭で休憩したと[筑紫道記]に記される。
それから2代目でも猪苗代宗春などが宿泊、3代目の孫衛門でも多くの公卿が宿泊・・・さらに4代目の天正15年(1587)には、豊臣秀吉(51歳)が
九州平定のため薩摩の島津義久(55歳)を攻めた時と、文禄元年(1592)朝鮮出兵の際(秀吉56歳)もこの枕流亭で1泊したとある。宝歴2年(1752)長州藩絵図方役人
有馬武春喜三太(52歳)が枕流亭で筆をとり、その絵図に[寝太郎塚]を描く。但し誤字で「寝太郎塚→祢太郎塚」となっている。(萩藩御国廻御行程記)
このとき枝村当主は12代介衛門である。
文政元年(1818)には、雲華院大含(46歳)が頼山陽(39歳)と共に長門国入りした時も枕流亭/枝村家に宿をとり、絶景12勝の屏風絵に[寝太郎塚]を描き、
その文字も記す。当主は13代喜兵衛(49歳)文政6年(1823)には島原藩の儒者、川北温山(30歳)が藩主松平忠候(25歳)に随行来泊し、温山紀行に
厚狭の絶景12勝のうち6番目に[寝太郎塚」をあげている。同年には内藤昌盈の官暇漫吟に寝太郎伝説が謡われている。
博多の儒者、亀井昭陽(50歳)も枕流亭の12勝の文字「寝太郎塚」を書き残している。
文政9年(1826)には京都の画家、浦上春琴・号/睡菴(48歳)が来泊、やはり枕流亭で2首の詩文を書いている。(父は岡山藩士浦上玉堂)。文政10年
(1827)には儒者で詩人、広島福山藩の菅茶山(80歳)も枝村家で「千町ヶ原」と「寝太郎」の所感を記した。
このとき枝村家14代当主は政甫(31歳)、15代予定の助之進(のち喜平)は5歳、隠居は喜兵衛とある。文久2年(1863)長州藩が討幕挙兵を企てて
失敗したとき、山口に滞在していた公卿で政治家の三条実美(27歳)らは長府の功山寺に逃れるとき、枕流亭の屋敷(枝村本宅)に1泊、当主は15代
枝村喜平で翌朝未明に出発とある。(11月16日記)
他に三条西季知(31歳)・四条隆謌 (36歳)・東久世道禧 (31歳)・壬生基修(29歳)・錦小路頼徳(29歳)・沢宣嘉(28歳)が同伴している。
世にいう「7卿落ち」である。このように枝村家枕流亭の歴史は明治29年(1896)酒造業の廃業、15代喜平まで300年以上も栄華を誇った。
なお厚保村の酒造業来島清三郎、伊佐村の酒造業池田猪右衛門らとも親交があったがいずれも明治の後半で廃業した。
〇内藤隆信/勘解由(のち清覚僧)・・・大内家で事務引継ぎなどを行う勘解由使の職にいたが、主君大内義隆が内乱により陶晴賢に追われ
大寧寺で自害した時に、平賀清恒らと裏山から落ち延びる。のち真宗本願寺で10世の証如、さらに11世顕如の弟子となり清覚と名乗る。
15年間の修行のち、永禄8年(1565)長門国厚狭へ下る。永禄9年(1566)厚狭市南(現/貴船町)に本願寺の1宇堂を建立していたが、同年、
酒造業枝村孫衛門の支援を受けて河東(現/加藤)に本堂を創建する。1605.天正8年(1580)に2代の清俊が祐念寺と改めた。3代清純のあと
、延宝6年(1678)4代清秀が中市(現/本町2区)に移築する。宝永5年(1708)本堂の1部を改築する。
享保15年(1730)またや焼失する。寛保年間に再建する。この頃、有馬姓になる。慶応元年(1865)、住職有馬清信が寺子屋を開く、
なお有馬清雄氏は、東京仏教学院の学院長を4年間も務めるなど活躍された。
絵図・見取り図
@平賀城/別名(龍岡城)の絵図と見取り図 ・平賀城の出城/海之口の絵図と見取り図
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A
.............B
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活動の写真など
I J
K
名誉会員・・・・・・下記写真/寝太郎伝書を所蔵する地頭職末裔/縄田明人氏(元小学校及び中学校校長)
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Q寝太郎神社保存会/理事会(平成6年9月25日)左から5番目は寝太郎神社祭主の幡生正隆氏(名誉会員)
7番目は山陽商工会議所会頭/柳井雄三郎氏(名誉会員)で、寝太郎がワラジを運んだ佐渡島相川町との友好を深め,
昭和59年7月に寝太郎碑(ミカゲ)を宇部興産の定期船で運搬していった代表者の一人。
大佐渡開発総合センターに設置され除幕式が行われた。昭和57年、柳井雄三郎氏が「三年寝太郎」の民話をもとに、
佐渡島交流のきっかけをつくって親交を深めていたが、その後、途絶えてしまった。(寝太郎神社の歴史)
寛延3年に広瀬地区住民の手により、寝太郎の墓石の跡地に祠が造られた。
R寝太郎武者像祈願祭は平成10年9月27日(命日9/27推測)に実行委員18名の記名により惣社八幡宮で行われた。
Q
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寝太郎神社観光のご案内
当会のホームページは全国のみなさまが閲覧され、多くの問合せがあります。また「寝太郎神社」を参拝されています。
小さな神社ですが「アイデアを授かる神」として静かなブームを呼んでいます。大型字馬や1夜碑なども用意しています。
県外から訪ねてこられる寝太郎ファンの為の記念撮影用です。
千石船の大型模型
S-1
寝太郎が佐渡島へワラジを運んだと伝わる千石船の模型
(全長160p、幅52p、マストまでの高さ92p、甲板上の伝馬船全長25p)
材質はヒノキとケヤキで板のつなぎ合わせも本格的な造り。
ベテランの船大工/曽我秀雄氏が1年がかりで製作しました。
船体の各所に大小200個余りの銅版がはめ込まれている本格的なものです。
希望価格100万円のところ、半額の50万円で上村家が購入されました。(平成10年当時)
「梶浦の弁才丸」と命名、著作登録しました。命名責任者/田尾進。
このネーミング登録により10万円評価額がアップされました。
現在(平成20年)の評価額は120万円だということです。
S-8
テレビ出演3回
平成6年8月10日-YAB山口朝日放送テレビ、平成11年3月13日-TYSテレビ山口、平成16年10月21日-TYSテレビ山口。
(・・・・・写真はYAB山口朝日放送テレビアナウンサー井川弘宣さん・宮田昌子さん、田尾進)
新聞報道も20回以上あります。他に有線放送、ラジオ放送もあります。
●連絡先 E-mail : tao@netaro.net