大型紙芝居 ベニヤ板600ミリ×900ミリ:セット総重量37s(台座付き)
寝太郎落ち武者伝説
著作登録(紙芝居)第111480号
脚本/田尾 進、絵画/竹野 宏.
ナレーション(20分コース)小野又悦子
ナレーション(40分コース)川崎美奈子
【紙芝居上演内容】第1幕/戦国の情勢、第2幕/籠城合戦、第3幕/疲労の限界、第4幕/武田軍の奇襲、第5幕/大内家臣となる、第6幕/内乱おこる、
第7幕/義隆の自刃、第8幕/落ち武者、第9幕/開拓の誓い、第10幕/3年3月、
第11幕/佐渡へわたる、第12幕/砂金取り、第13幕/開拓工事、第14幕/寝太郎死去、第15幕/歴史のなぞ、(全15幕)
紙芝居(有料)上演プロフイール
平成4年4月3日、寝太郎権現堂において紙芝居の上演祈願祭を行い、現在まで諸団体の依頼を受けて各地の公会堂、山陽福祉会館、山陽老人福祉センター、山陽商工会館、厚狭小学校、
津布田小学校、円応寺駐車広場、梶沖開作連合自治会館、厚狭商店街ちびっこ広場、厚狭郵便局コミュニテイルーム、山陽町文化会館、及び各子供会や婦人会、
老人会など15年間にわたり、大勢の方にご覧頂きました。今後は更なる目標に邁進するため一般上演を終了します。
(H20-4/27寝太郎公会堂で特別上演)
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下記のL寝太郎伝書を所蔵する地頭職末裔/縄田明人氏
(名誉会員)・ M厚狭小学校での紙芝居上演会
・N古わらじ濯ぎの地/厳島神社に大型
「寝太郎絵馬」を奉納(裏書連名30名)・O佐渡ヶ島出航の地(梶浦)での紙芝居上演会
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↓・P紙芝居「寝太郎落ち武者伝説」上演祈願祭を円応寺の寝太郎権現堂で行う。(平成4年4月3日)
Q寝太郎神社保存会/理事会(平成6年9月25日)左から5番目は寝太郎神社祭主の幡生正隆氏(名誉会員)
7番目は山陽商工会議所会頭/柳井雄三郎氏(名誉会員)で、寝太郎がワラジを運んだ佐渡島相川町との友好を深め,
昭和59年7月に寝太郎碑(ミカゲ)を宇部興産の定期船で運搬していった団体の一人。
大佐渡開発総合センターに設置され除幕式が行われた。
寝静まれる 寝太郎の里 13夜・・・蒼生
寝太郎伝説ゆかりの地としては、
寝太郎記念像、旧寝太郎堰記念碑、塚之原城跡、寝太郎堰、寝太郎古堰跡、縄田家わらじ蔵、寝太郎権現堂、円応寺、
千町ヶ原用水路、寝太郎の町名、寝太郎神社、惣社八幡宮、艀泊め千石松跡地、長光寺跡(洞玄寺)、
佐渡島出航地、わらじ濯ぎの地など、
寛延3年に広瀬地区住民の手により、寝太郎の墓石の跡地に祠が造られた。
R寝太郎武者像祈願祭は平成10年9月27日(命日9/27)に実行委員18名の記名により惣社八幡宮で行われた。
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寝太郎神社観光のご案内
当会のホームページ(平成14年開設)をご覧いただいた県外各地の方が「寝太郎神社」を参拝されています。
小さな神社ですが「アイデアを授かる神」として今、静かなブームを呼んでいます。右下は大型字馬
(幅96p、高さ56p、厚み5p)県外から訪ねてこられる寝太郎ファンの為の記念撮影用です。
お問合せは,
田尾進 0836-72-1542、又は E-mail : tao@netaro.net へ。
平成10年6月30日に [寝太郎大使]をネーミング登録しました。
予約をされた方には現地で由来をご説明します。(資料代¥3.000)。希望者には
「寝太郎大使」の服務規程、及び委嘱状を進呈しています。
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寝太郎が佐渡島へワラジを運んだと伝わる千石船の模型
(全長160p、幅52p、マストまでの高さ92p、甲板上の伝馬船全長25p)
材質はヒノキとケヤキで板のつなぎ合わせも本格的な造り。
ベテランの船大工/曽我氏が1年がかりで製作しました。
船体の各所に大小200個余りの銅版がはめ込まれている本格的なものです。
希望価格100万円のところ、半額の50万円で上村家が購入されました。(平成10年当時)
「梶浦の弁才丸」と命名して商標著作登録(第110782号)しました。命名責任者/田尾進。この命名登録により10万円評価額がアップされました。
現在(平成20年)の評価額は120万円だということです。
下記・@寝太郎木彫像・・・明治時代には、円応寺の裏山に寝太郎が住んでいたという屋敷跡(痕跡)が見られたという。
この地に昭和3年、寝太郎権現堂が立てられ「寝太郎木像」がまつられた。木像は延宝8年(1680)〜天和2年(1682)にかけて制作されたもので、
当時は白木の状態であったと推測される。
享保5年(1720)円応寺4代海呑和尚の頃、最初の彩色が施されたものと言われ、次の再彩色は寛延4年(1751)6月となっている。
(この時期に寝太郎文書が表装されていることは著書でも述べた。)
これらについては5代住職東堂成山の記録により証明されているが、
古くは千町ヶ原を南北にわけ、木像は毎年交替で保管されてきたもの。そして何故か
木像を保管した地域が豊作になるということで奪い合いが起きた。
5代住職は苦肉の策として「再彩色をする」との理由で預かり、後日「紛失した」ということにシナリオが作られた。
これ以降、木像の消息は絶えて争いはなくなったが、明治14年(1881)政府の意向で小さな祠、社の統合がはじまり、
寝太郎神社も惣社八幡宮へ合紀されることになった。事実、1部の祠が移転され、住民の反対運動で復帰したという経由がある。
この件でにわかに住民意識が芽生えた。
寝太郎餅の創業もそうであるし、寝太郎旧跡記念碑の建立、寝太郎絵葉書の発行などである。
そこで木像は、昭和3年(1928)先代の21代黙宣和尚が須彌壇の中を掃除している時に偶然発見したという。
だが、これはシナリオ通りではないのか。崇拝されていた木像が紛失することは考えにくい。
粗末に扱われていたとは思えない。大切に保管(隠されていた?)のではないだろうか。。
A寝太郎武者像・・・(惣社八幡宮/幡生邸所蔵)平成10年に寝太郎神社保存会の有志18名が祈願祭を行った。
B寝太郎銅像・・・・・・(JR厚狭駅前)昭和46年に寝太郎権現奉賛会を中心に建立された。(米林勝二作)
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A
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流れゆく 寝太郎音頭 町の春・・・蒼生
左)山陽町発行sanyotownにも掲載して頂きました。13n、16n、17n(平成13年11/1)
右)YAB山口朝日放送テレビ(平成6年8/10)に出演しました。紙芝居「寝太郎落ち武者伝説」も紹介して頂きました。
アナウンサー井川弘宣さん・宮田昌子さん、田尾進
NHK大河ドラマ「毛利元就」誘致運動の記録展、
NHK大河ドラマ毛利元就を誘致した中心団体は「七人の侍の会(中村秀昭会長=旧新南陽市議)」という小さな民間グループであった。
彼らのくり広げる壮大な夢/防長三武将サミット(防長3武将とは大内義隆、陶晴賢、毛利元就をさしている)
が、やがて市町や県をも動かして実現した。私/田尾進も第1回サミットから参加し、
微力ながら県内外を奔走すること20回、5年有余も行動を共にした。
〇頃は戦国時代、日本各地で武将の夢と野望が渦巻いた。中国地方も決してその例外ではない。
文人派の大内義隆(俳優/風間トオル)とそりが合わなくなった
武人派の陶晴賢(俳優/陣内孝則)は領地をめぐってのニセ情報を信じて義隆を討った。、
義隆の重臣で最後まで主君を守り大寧寺で殉死した冷泉隆豊(俳優/春田純一)は清恒(のち寝太郎)の姉婿である、
清恒(のち寝太郎)は共に大内家で勘解由使の職にいた内藤隆信と共に落ち延びる。
この清恒が千町ヶ原を開拓した寝太郎翁である
一方、主君を討った陶晴賢も西国進出の野心に燃える毛利元就(俳優/中村橋之助)
の謀りごとに乗せられ出陣したが、厳島で元就の奇襲作戦に敗れて自害一族も滅ぼされた。勢いづいた毛利元就はさらに大内家を
継いだ甥の義長をも討ちとり、長きにわたり周防と長門の両国を手中におさめていく。この大河ドラマ[毛利元就」を誘致した中心団体は、
他ならない7人の侍の会であった。そこでこの誘致運動に携わった1人として5年間の全記録を郵便局で紹介した。
7人の侍の会/主催行事
S-09)第1回防長三武将サミット(山口県周南市の若山城跡)
S-10)第2回防長三武将サミット(広島県の毛利元就居城/郡山城跡)後列左が私/田尾進、映画会社から
借りた武具を身につけ、7人の侍の会メンバーとして「盟約の儀に出演」しました。
S-11)第3回防長三武将サミット(広島県廿日市市)野外特設舞台での演技、
以下、第4回防長三武将サミット-山口県長門市、
.....第5回防長三武将サミット-山口県山口市、
.....第6回防長三武将サミット-広島県佐伯郡宮島町など以下、省略...
S-12)はサミットではなく「防長3武将行列」ちびっこ含む300名もの勇士、これらに関連する行事は20数回にも及ぶ。
S-09
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上記の記録展は写真120枚、資料70点など展示し厚狭郵便局で盛大に行った。
平成8年10月1日〜25日まで「NHK大河ドラマ毛利元就」誘致運動5年間の記録展
(主催/寝太郎伝説研究会・後援/山陽町文化協会及び山陽商工会議所青年部)
平成14年3月1日〜平成15年1月31日まで「寝太郎紙芝居」パネル展
平成15年9月24日、寝太郎紙芝居上演会(厚狭郵便局コミユニテイルーム)