三年寝太郎

寝太郎伝説研究会ホームページ..... 平成14年(2002)9/10開設 

著作登録/第94896号  [寝太郎落ち武者伝説] 平賀清恒物語

「寝太郎伝説研究会」
寝太郎伝説研究会々長(寝太郎大使) 田尾 進
〒757-0004/山口県山陽小野田市大字山川1349-3                            



絵で見る寝太郎伝記
文:田尾進/絵:竹野宏より(B5判10頁)著作登録第109620号

●戦国時代、信濃国佐久地方を治めていた豪族、清和源氏の末裔、平賀成頼入道源心が 甲斐国,武田晴信(のち信玄)に討たれてしまいました。父を亡くした嫡子の清恒(のち寝 太郎)は一旦、佐渡島へ逃れていましたが、お家再興の夢も薄れて姉の住んで いた周防国祖生に下ってきました。姉の夫は当時、周防と長門を治める大内 義隆の重臣冷泉隆豊で、清恒も家臣にしてもらいました。
●その後、お家騒動で大内義隆は長門大寧寺に追われ自決しました。清恒は 裏山から長門国厚狭に落ち延び、名を捨てて農家の手伝いをしていましたが、 農民が干ばつで苦しんでいることを知り広大な荒地の開拓を志します。その 思案は、3年3ヵ月も続きました。やがて、佐渡島へ大量のわらじを運んで いき、変わりに鉱夫の履き古したわらじと交換しました。
●そして持ち帰った古わらじを桶に入れて濯ぐと砂金が溜まり、清恒は莫大 な富を得ました。これをすべて開拓資金に使ったのです。そのお蔭で、厚狭 川に大井手が完成し、堰きとめた水は石組みの上を超して、桶門から用水路 にそって荒地に流れ込みます。こうして千町ヶ原という立派な水田が完成し たのです。人々は感謝して、その偉業を子や孫にまで語りつぎましたが、 後の権力者の圧力などで、清恒の名は忘れられてしまいました。
●そして、いつしか寝太郎さまと崇めて神社に祭るようになったのです。
●連絡先 E-mail : tao@netaro.net


(出版物のご紹介!)関連資料/田尾進著     
寝太郎落ち武者伝説 B6判58頁   推薦者/縄田明人(高校講師、女子短大非常勤講師、元中学校長)
寝太郎伝説ゆかりの地B6判38頁 推薦者/山本善一(山陽町文化協会会長、元町議会議員)
寝太郎と大内氏系譜B6判32頁 推薦者/重村房雄(山陽町文化財愛護会顧問、俳人号/蒼生)
寝太郎伝書のナゾB6判36頁 推薦者/幡生正隆(惣社八幡宮宮司、寝太郎神社祭主)
                            . 内部資料
絵でみる寝太郎伝記 B5判10頁  文/田尾進・絵/竹野宏
寝太郎巨大史脈A4判6頁 田尾進
寝太郎紙芝居B6判30頁 文/田尾進、絵/竹野宏
寝太郎古文書の究明A4判8頁 田尾進
寝太郎との関わり人物 B6判10頁   田尾進
寝太郎と矢野主水B6判6頁 田尾進
寝太郎と清覚僧B6判8頁 田尾進
寝太郎弟の系譜B6判8頁 田尾進
厚狭の寝太郎 新聞連載 漫画/広中健次・監修/田尾進
紙芝居主題歌カセット   潮中良子作曲/田尾進作詞


Eマンガ「厚狭の寝太郎」監修/田尾進、漫画/広中健次
(平成13年6月より〜平成15年5月まで、2年間にわたり中国新聞に連載されました)

E 
   寝太郎系譜/著作登録(系図)第111056号


〇清和源氏第23代末裔・寝太郎翁/平賀清恒系図
  平賀家開祖(盛義ハ清和源氏支流5代ノ源義光/通称新羅三郎ノ3男二ナル)
初代平賀盛義(応徳3年)ハ義清ノ異母弟ニナル、
2代平賀義信(大治2年) 源一門トナッタ大内家カラノ養子デ幼名ハ大内四郎義宣ナリ、ノチ平賀城ヲ築城スル、
(ナオ義信ガ跡目ヲ継イダ翌年、盛義ノ実子有義ガ誕生スルガ時遅シ、ヤムナク越後国二移リ金津保ノ地頭トナル。資義ハ其ノ子)
3代平賀季治、義信ノ3男 (仁平2年)、兄ハ惟義、次兄ノ朝政ハ執権北条時政ノ後 牧ノ方ノ娘婿ニナル
4代平賀長冶、季治ノ長男(承安元)、文治元年ノ源平ノ戦イデ名ヲ成ス、
5代平賀孝冶、長冶ノ長男(建久4年) 承久ノ乱デ幕府方二味方スル、
6代平賀俊冶、孝冶ノ長男(建保3年)、北条一門ノ守護職トナリ、平賀主膳ト称ス
7代平賀惟康、(寛元3年)、北条時宗ノ死後、幕府ヲ2分スル対立二揺レル
8代平賀惟永、(文仁8年)北条氏ノ幕府政権カラ足利尊氏ノ大動乱二寝返ル、
9代平賀惟重、(永仁5年)元弘ノ乱デ北条氏二対抗スル、
10代平賀惟久(正中3年)皇統ノ分裂二衰退スル
11代平賀惟栄(正平7年)南北朝内乱ヲ57年間生キ抜ク
12代平賀惟徳、惟栄ノ 3男(弘和2年)三郎トモ称ス、 崎田ノ砦ヲ築ク
13代平賀惟和、(応永16年)南朝ノ回復運動二対抗スル
14代平賀隆義、永享6年、信濃国村上氏ノ支配下二入リ、甲斐国ノ武田信昌軍勢ヲ追撃スル、後、海ノ口二出城ヲ築ク。
15代平賀貞義(寛正4年)、甲斐国ノ武田信昌ト攻防ヲ繰リ返ス
16代平賀成頼入道源心(延徳3年)、天文5年海ノ口出城デ武田晴信「後ノ信玄」ニ討タレ戦死、
法名ハ玄信院雄山道英大居士、妻ハ岩村田城主大井忠孝ノ娘禧子(湖月)デアリ
海ノ口出城デハ、薙刀ノ名手トシテ最後マデ死力ヲ尽クシテ戦フ。       
17代平賀清恒(大永3年)、平賀城ノ麓二アッタ 清水涼御殿恒常デ生ル
、 海ノ口出城ノ崩壊二ヨリ、裏山カラ敗走、後二冷泉家ニ
嫁イダ姉ヲ頼リ周防国へ逃レシ、大内義隆ニ仕ヘル、妻ハ義隆ノ異母妹也、
オ家騒動二ヨリ長門国へ伏セ、奇抜ナ発想デ千町ヶ原ヲ開拓スル、通称/寝太郎ト云フ、
慶長15年ニ没ス、ノチ寝太郎ト称サレ神社二マツラレル

18代平賀清隆、清恒ノ長男デ(天文17年)、弘冶2年9歳二至ル頃、父清恒ニ先立チ没ス、一族ノ滅亡、

平賀成頼入道源心とその妻禧子(大井忠孝ノ娘)
子供は4人・・・姉ノ姚子ハ冷泉隆豊二嫁グ・・・・・嫡子ハ元豊
                       ・・・・・・・清恒(寝太郎)・・・・清隆(弥一)へ
                     ・・・・・・・弟/季恒(国長)・・・・・季光(国光)へ
                 ・・・・・・妹/市川信次へ嫁ぐ、・・・・信秀へ
                                              
////////// 省略、上記、長文のため省略しています

   平賀清恒(寝太郎)と重要な関わり人物・・・

大内義隆、陶晴賢、杉重矩、大井行真(岩尾城主)、大井忠孝(岩村田城主)
、 市川信次(伴野城主家老)、冷泉隆豊(大内家重臣/塚之原城主)
、 中川長八(山師/のち豪商/但馬屋主)、矢野主水/貞政(のち宮司)
、枝村孫衛門(酒造業)、内藤隆信/勘解由(のち清覚僧)、

その一部紹介・・シリーズ。・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇中川長八・・・山師で、早くからは金鉱山を発見し、内密で採掘していた。後年、山師の仲間割れにより、幕府の知るところとなる。 その間、十数年間もの蓄えで豪商、但馬屋の主となったといわれる。

〇矢野主水貞政・・・・(清恒母の実父大井忠孝の弟大井忠治の孫になる)信濃国蔦尾城主・村上義清の家臣/矢野左近主水司の養子となる。 貞政も主水頭の職となるが、天文22年(1552)主君村上義清が甲斐国の武田信玄に敗れるに伴い、佐渡島へ敗走、これ又、奇遇にも砂金採りの作業に携わる。  弘治元年(1555)ワラジを運んだ清恒と再会し共に長門国へ下る。彼は治水工事を得意とし千町ヶ原開拓工事に大きく貢献する。 のち数年後、金鉱石の一部を受取り?吉田庄(現、下関市)へ移る。
元亀2年(1571)吉田庄楢崎に信濃国の諏訪神社を勧請して初代宮司となる。併せて 諏訪大社の特徴、上社と下社を合わせて一社を形作るように吉田庄を上諏訪、下ノ諏訪と名付けたという。この地名は今尚現存している。 地元の言い伝えでは天正5年(1577)8月、主水が亡くなると墓は宗蓮寺山に作られたが、その中に佐渡島の金鉱石など財宝が埋められたという。 またその墓の一角だけは宝積山とも呼ばれている。 主水の子貞俊および孫貞吉も、諏訪神社の宮司として仕えている。
毎年8月には主水祭(矢野主水)も行われていたが、寛永14年(1637)曾孫貞義が未婚のまま急死したことで、その直系は絶えてしまった。 また明治39年(1906)神社整理のため、335年の歴史をもつ諏訪神社も吉田八幡宮に合祇された。 なお矢野主水の直系は絶えたものの分家の子孫は多く、矢野陸軍兵長(29歳)が太平洋戦争のとき「第三次ソロモン海戦」によりガダルカナル島で戦死。 (昭和17年11月没)。
他にも矢野一族と思われる者は、昭和20年6月にフィリピン(セブ島ダナオ)で戦死した矢野伍長(31歳)、同じく6月に呉海軍病院で 療養中に死亡した矢野海軍整備上等兵(21歳)、さらに8月には広島西部第2部隊にいた矢野陸軍軍曹(25歳)も戦死している。 だが、今なお地元に10数軒の矢野姓があり、いずれも矢野主水の末裔であると思われるが、これ以上の調査は控えておく。 (なお吉田宰判所管の吉田庄は、明治11年に吉田村と吉田地方村とに分かれ厚狭郡に属す、のち明治22年、吉田村に統合。 さらに昭和30年、下関市に編入され現在に至る。

〇枝村孫衛門と子孫・・・・酒造業で大庄屋、厚狭市の大富豪として有名である。孫衛門というから3代目であろうか、七瀬川(現/厚狭川)の東岸に豪邸、 枝村家本宅とその離れに枕流亭という旅籠を営み、広大な庭は絶景12勝と謳われていた。 孫衛門は治水工事に積極的で、[千町ヶ原]開拓工事を支援した人物の一人とされている。
枕流亭についても輝かしい数々の歴史がある。まずは孫衛門の祖父、つまり枝村家初代の頃までさかのぼれば、文明12年(1480)、 山口の大内政弘(35歳)に招かれた京都の連歌師飯尾宗祇(60歳)が九州の大宰府まで足を運んだとき、厚狭市の枕流亭で休憩したと[筑紫道記]に記される。 それから2代目でも猪苗代宗春などが宿泊、3代目の孫衛門でも多くの公卿が宿泊・・・さらに4代目の天正15年(1587)には、豊臣秀吉(51歳)が 九州平定のため薩摩の 島津義久(55歳)を攻めた時と、文禄元年(1592)朝鮮出兵の際(秀吉56歳)もこの枕流亭で1泊したとある。宝歴2年(1752)長州藩絵図方役人 有馬武春喜三太(52歳)が枕流亭で筆をとり、その絵図に[寝太郎塚]を描く。但し誤字で「寝太郎塚→祢太郎塚」となっている。(萩藩御国廻御行程記) このとき枝村当主は12代介衛門である。
文政元年(1818)には、雲華院大含(46歳)が頼山陽(39歳)と共に長門国入りした時も枕流亭/枝村家に宿をとり、絶景12勝の屏風絵に[寝太郎塚]を描き、 その文字も記す。当主は13代喜兵衛(49歳)文政6年(1823)には島原藩の儒者、川北温山(30歳)が藩主松平忠候(25歳)に随行来泊し、温山紀行に 厚狭の絶景12勝のうち6番目に[寝太郎塚」をあげている。同年には内藤昌盈の官暇漫吟に寝太郎伝説が謡われている。 博多の儒者、亀井昭陽(50歳)も枕流亭の12勝の文字「寝太郎塚」を書き残している。
文政9年(1826)には京都の画家、浦上春琴・号/睡菴(48歳)が来泊、やはり枕流亭で2首の詩文を書いている。(父は岡山藩士浦上玉堂)。文政10年 (1827)には儒者で詩人、広島福山藩の菅茶山(80歳)も枝村家で「千町ヶ原」と「寝太郎」の所感を記した。 このとき枝村家14代当主は政甫(31歳)、15代予定の助之進(のち喜平)は5歳、隠居は喜兵衛とある。文久2年(1863)長州藩が討幕挙兵を企てて 失敗したとき、山口に滞在していた公卿で政治家の三条実美(27歳)らは長府の功山寺に逃れるとき、枕流亭の屋敷(枝村本宅)に1泊、当主は15代 枝村喜平で翌朝未明に出発とある。(11月16日記)
他に三条西季知(31歳)・四条隆謌 (36歳)・東久世道禧 (31歳)・壬生基修(29歳)・錦小路頼徳(29歳)・沢宣嘉(28歳)が同伴している。 世にいう「7卿落ち」である。このように枝村家枕流亭の歴史は明治29年(1896)酒造業の廃業、15代喜平まで300年以上も栄華を誇った。 なお厚保村の酒造業来島清三郎、伊佐村の酒造業池田猪右衛門らとも親交があったがいずれも明治の後半で廃業した。

〇内藤隆信/勘解由(のち清覚僧)・・・大内家で事務引継ぎなどを行う勘解由使の職にいたが、主君大内義隆が内乱により陶晴賢に追われ 大寧寺で自害した時に、平賀清恒らと裏山から落ち延びる。のち真宗本願寺で10世の証如、さらに11世顕如の弟子となり清覚と名乗る。 15年間の修行のち、永禄8年(1565)長門国厚狭へ下る。永禄9年(1566)厚狭市南(現/貴船町)に本願寺の1宇堂を建立していたが、同年、 酒造業枝村孫衛門の支援を受けて河東(現/加藤)に本堂を創建する。1605.天正8年(1580)に2代の清俊が祐念寺と改めた。3代清純のあと 、延宝6年(1678)4代清秀が中市(現/本町2区)に移築する。宝永5年(1708)本堂の1部を改築する。 享保15年(1730)またや焼失する。寛保年間に再建する。この頃、有馬姓になる。慶応元年(1865)、住職有馬清信が寺子屋を開く、 なお有馬清雄氏は、東京仏教学院の学院長を4年間も務めるなど活躍された。

                
左・:平賀城/別名(龍岡城)の絵図と見取り図・・・右・平賀城の出城/海之口の絵図と見取り図
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.....上記のお問合せについては/ E-mail :  tao@netaro.net


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