小栗判官と照手姫

 小栗判官と照手姫の話は、歌舞伎や浄瑠璃に詳しい方はよくご存じのこととおもいますが、簡単に説明しますと、

『鞍馬寺の毘沙門天の申し子とされる小栗が武蔵相模の郡代の娘照手姫(てるてひめ)の元へ強引に婿入りし、その郡代横山一族に謀殺されたのち、閻魔大王の計らいで蘇り、夫のため苦難に耐えて生きていた姫と再会するというもの』

ですが、様々なバリエーションがあります。

 小栗判官は、もともとは「説教節」の代表作です。説教節を唱えながら、諸国をさすらう「ささら」の人々が、その当時の世の中の様々な出来事や人々の願いや苦しみなどを物語の中に織り込んでいった結果、様々なバリエーションが生まれたのだと思います。

 話しの中では、墓場から蘇った小栗が、朽ち果てた体で「餓鬼阿弥」と呼ばれながら、人々の手によって土車に乗せられ、熊野街道を湯の峰温泉まで運ばれ、その霊泉によって蘇るという場面があります。今も残る「小栗街道」とう呼び名は、この伝説に由来しているというのです。では、どうしてこのような物語が生まれたのでしょうか。

 当時、熊野信仰は貴族だけでなく、武士階級、庶民へと広がって、「蟻の熊野詣」と形容されるほど人気を高めました。また、救いを求めて熊野三山(本宮・新宮・那智の熊野大社)をめざす人々の中には、多くの障害者や、病者が含まれていました。「餓鬼阿弥」と呼ばれた小栗判官の姿は、実は、ハンセン病患者の姿だったと考えられています。

 小栗の乗った土車(これに乗せられるのは乞食や罪人などケガレがあるものに限られていた)は、ケガレの象徴でハンセン病患者も人々から忌み嫌われるものではありました。しかし人々は、「一つ曳いては千僧供養、二つ曳いては万僧供養」と言いながら、ハンセン病患者を次から次へと受け渡し、目的地まで運んでくれたのです。その行為は、宗教に根ざす施しかも知れません。また逆に、差別・迫害に及ぶものもいたでしょう。しかし、ここには確かに共生の姿があります。自分たちの社会から排除して、受け入れないという差別はありません。でなければ、このような物語が人々に語り継がれてはこなかったのではないでしょうか。

 人々が、ハンセン病患者と共生していた例としては他にも、忍性の建てた奈良市の北山十八間戸があります。ここでは、北山非人(当時の被差別民)がハンセン病患者の世話をしていたことが知られています。子どもたちには、映画「もののけ姫」の中で火器を作っていた人々を思い浮かべさせればいいかも知れません。

 ハンセン病は、確かに不治の病として人々から恐れられていました。しかし、人々は決して彼らを社会から排除することなく様々な形で共生していました。

 ハンセン病患者が、完全に社会から隔絶されるのは、明治になって「らい予防法」が施行された後のことなのです。らい予防法の理念である「強制・絶対・終生・完全隔離」が徹底されるに至って、ハンセン病患者に対する、新しくて厳しい差別が生まれたと言えます。

   

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